アカデミー受講生の声
VOIX
1990年から開催している日仏音楽交流事業「京都フランス音楽アカデミー」には、これまで多数の受講生が参加し、いまでは多くの元受講生が国内外で活躍しています。
ここでは、アカデミーに参加した方々へのインタビュー記事をお届けします。
それぞれの音楽人生の中でアカデミーを通して得たものとは?
参加にご興味をお持ちの方は、是非ご一読ください!
(取材・写真・文/治部美和)
●受講生インタビュー
Vol.1 菅沼千尋さん(2025年 マリー=テレーズ・ケレール教授 声楽クラス受講生)
小学5年生から声楽を学び始め、東京音楽大学・大学院で研鑽を重ねてきた菅沼千尋さん。現在は、演奏と指導の両面で活動の幅を広げています。長年の蓄積を携えて臨んだ今回のアカデミーでは、表現の深さと声の可能性に真摯に向き合う姿が印象的に残りました。各クラスから選抜された受講生による修了コンサートでは、歌劇《ハムレット》より〈私を遊びの仲間にいれてください〉を通して、作品に内在する感情を丁寧にすくい取るような歌唱を披露してくれました。
「挑戦」―自分との闘いの連続だった2週間
―声楽を始めたきっかけを教えてください。
小学5年生の時に学校に合唱団ができ、「絶対入りたい!」と父にお願いしたところ、「下手だと迷惑をかけるから基礎からちゃんと習いなさい」と言われたのがきっかけです。もともと音楽は好きで、ピアノは4歳から続けていました。音楽が身近にある家庭で育ち、声楽の世界にも自然に入っていきました。
―小学5年生からというのが驚きですね。どのような先生に習われたのですか?
町の音楽教室にいらした、オペラ出演もされるテノールの先生です。その先生の影響でオペラの曲にも親しむようになりました。
―高校進学時も音楽の道を考えていたのですか?
音楽高校に行く選択肢もありましたが、両親の勧めで普通科に進学しました。ただ、声楽のレッスンはやめずに中高とも同じ先生について、ピアノも同時進行で続けていました。学校外で声楽を学びながら、ピアノやソルフェージュは別の先生に習う、という高校時代でした。
―念願かなって音楽大学に進学し、大学院にまで進まれました。
東京音大に入って、ようやく「水を得た魚」のように学ぶ喜びに満たされたと言えます。まず、図書館で多くの楽譜に自由に触れられることがうれしかった!興味のある作品にすぐアクセスできる環境が整っているというのは、ありがたいことです。同級生と一緒に課題に向かって悪戦苦闘する日々を通して、仲間と学ぶ楽しさも実感しました。と同時に、思っていたほど自分が上手くない、ということも思い知らされました。
―それだけ技量や志しの高い仲間に囲まれていたということですね。大学院生活を経て、進路についてはどのように考えるようになったのでしょうか?
いくつか海外のアカデミーに参加し、大学の提携プログラムなども利用しましたが、なかなか「この先生だ」と思える方に出会えずに迷っていたら、大学でお世話になったフランス歌曲の先生にこのアカデミーを紹介され、参加を決めました。フランス音楽だけが目的ではなく、自分に合う先生に出会いたいという思いが強かったです。
―実際に受講してみていかがでしたか?
本当に来てよかったです!マリー=テレーズ先生は、生徒一人ひとりに的確なアドバイスをくださる素晴らしい先生です。自分の「本当の声」で歌うことを大切にされていて、無理な課題を与えず、10年・20年のスパンで成長を見てくださいます。これは他の生徒のレッスンを聴講していても、自分が受けていても感じたことです。大学院を卒業して1年ほどは、演奏会に出演したり、音楽学生を教えたり、フリーで活動することにはやりがいを感じますが、正直、“孤独”とも言えます。仲間がいて、同じ目標に向かって一緒に進んでいた大学時代と違い、今は「太平洋を一人で泳いでいる」ような感覚です。だからこそ、今回アカデミーで同じ志を持つ仲間たちに出会えたことは、とても励みになりました。
―クラスの雰囲気はどうでしたか?
声楽の受講生は私を入れて、11人。皆さん非常に熱心で、回を重ねるごとに変化していくのが分かりました。先生の指摘をすぐに反映しようと模索し、休み時間に話していても「そういうこと考えているんだ!」という発見の連続です。勉強熱心な方ばかりで、刺激的な2週間でした。
―日本とフランスの指導の違いはありましたか?
私は日本で非常にバランスの取れた先生に出会えているせいか、それほど大きな違いは感じませんでしたが、一般的には違いがあるのではないでしょうか。日本では若い時から大曲を歌わせる傾向があるような気がします。それが試験やコンクールでは高評価につながるのでしょう。でもマリー先生は、「声の成長」を大事にされておられました。
―「声の成長」とは?
喉というより、「声」そのものを育てる感じ、と言ったらいいでしょうか?声は、使って育てるもの。誤った指導を受けると声帯を傷めてしまう危険もあります。生徒一人ひとりの年や喉の成長具合に合わせた曲選びをしてくださる方だと思いました。
「声」ということで言うともう一つ。日本ではクラシックであまり使われない「胸声(地声)」を、フランスでは大切に扱うと教えていただきました。胸声を混ぜることで、オーケストラに負けない強い声をつくるという考え方が新鮮でした。マリー先生のレッスンは「圧倒的」。今、私自身も音楽学生を教える機会がありますが、伝えたいことをどう言葉にすればよいのか、もどかしさを感じることが多くあります。でも、マリー先生の指導方法を知り、自分の生徒にも使えるようなテクニックや練習方法に、「これだ!」と思う発見の連続。教える立場としても、たくさんのヒントをもらいました。
—今回のアカデミーでの経験を、今後にどうつなげようとお考えですか?
今後は、オペラの本場である海外に留学することを視野に入れています。ただ「海外だから」という理由ではなくて、信頼できる先生と連携しながら、確信を持って一歩を踏み出したいと思っています。この2週間は、自分自身と深く向き合いながら、素晴らしい先生方や仲間との出会いを通して、全国に同じ志を持つ人がいることを実感できる、貴重な期間でした。声楽を学ぶ者として、また教える立場の者としても、多くの学びがありました。この経験を糧に、ここからまた一歩ずつ前に進んでいきたいと思います。
●パリ・エコール・ノルマル音楽院スカラシップ過去受賞者リポート
2004年に開始されたパリ・エコール・ノルマル音楽院へのスカラシップ制度は、将来有望な受講生にフランス音楽留学への扉を開く機会となっています。過去のスカラシップ受賞者の声をご紹介します。
Vol.4 永井 啓子さん (2009年スカラシップ受賞、広島交響楽団ヴィオラ奏者)
海外で音楽を勉強しようと思ったたことはなかったけれど、国内にいながら国外の教授のレッスンが受講出来る点に魅力を感じ、京都市立芸術大学大学院に在籍中の2009年、「アカデミー」に参加、見事スカラシップを受賞した。 4歳の頃からヴァイオリンを習っていたものの、演奏会に初めて足を運んだのは中学生の時。そしてその日耳にしたヴァイオリンの音色に衝撃を受けた。「自分もこんな音を出したい!」。それまで師事していた先生に相談し、指導者を代えて本格的に音楽に取り組み始め、この頃から音楽を専門に生きていこうと決意したそうだ。
スカラシップを受賞して留学の機会は訪れたものの、「家族はまったく音楽に関心がなく、留学することを納得してもらうのが難しかった」そう。早くから楽器に親しんでいたが、「両親共に音楽とは全く無縁。進学に関しても『こうしなさい』『ああすれば』などと干渉された事は一度も無い」と言うのだから、驚きだ。兵庫県西宮市に生まれ、同志社女子大学学芸学部音楽学科でヴァイオリンを専攻。必修科目だったヴィオラの授業でその低音の魅力に惹かれ、同大学を卒業した2008年、京都市立芸術大学大学院にヴィオラ専攻で進学した。
大学院在学中のまさかの留学の話。「これはチャンスだ!と思いました」。休学を決意し、2009年9月にエコール・ノルマルへ。「行っちゃった、という感じ」と、朗らかに笑顔を見せる。
降って沸いたようなフランス生活。始めの4ヶ月間は音楽以外の理由で辛かったそうだが、フランスならではの思い出深いことも沢山体験した。オペラを聴きに行ったものの、美術係のストのために舞台装置が一切ない。しかし観客が舞台を盛り上げ、舞台と観客が一体になって演目は最後までやり通されたとか。また、17区のアパルトマンに住み始めてすぐこと。練習中に突然ドアが叩かれた。「もしかしたら音がうるさくて怒られるのだろうか!?」と、おずおずドアを開けると、40台とおぼしき住人が「セ・マニフィック! もっと弾いて!」と喜び勇んで飛び込んできた。自分の祖父がヴィオラを弾いていたので、永井さんのヴィオラの音色を耳にして嬉しくなり、思わず扉を叩いたのだと言う。
授業に関して印象的だったのはバッハの講義。それまでは「~しなければいけない」と、規則ばかりを指摘されてきたが、「バッハは自分だけの曲で良い」「自分の言葉で演奏しなさい」「この曲は食事をする前の曲だから、誰もちゃんと聴いてないよ!」など、今までの考えを根底からひっくり返されるような指導の数々。その一つ一つが忘れられないと言う。様々な個性を持った演奏を認める許容量の深さを実感。「もしずっと日本にいたら、この自由さが分からないままだったと思います。音楽を自由に作ることの楽しさ。でもその分、自分で考える事も必要。日本でダメだと言われてきた部分を厳しく追及していくことも必要だけれど、自分の演奏の良い部分を認めてもらい、かつ厳しい指摘もしてくれるレッスンが楽しかった」。
あっという間の1年間。「もっと準備をしていたら更により良いものになったかもしれません。特にフランス語を理解出来たら絶対違っていたはず」と、振り返る。レッスンは基本的に英語で進められたそうだが、「ノッて」くるとフランス語に。「細かい部分が分からず歯がゆかった」と肩をすくめるが、努力と勤勉さ、大らかな人柄で乗り越えてきたことが見て取れる。「面白い人や印象深い人、素敵な演奏をする人にたくさん出逢いました。一人ひとりの名前は思い出せなくとも、一緒に過ごした思い出深い時間は忘れられません」。
大学院に復学するため、2010年に帰国。翌年3月に同大学院を卒業。音楽に関してはほとんど一切干渉しなかったというご両親だが、一貫して言われてきたことは「独立すること」。インターネットで偶然見つけた広島交響楽団のヴィオラ奏者募集の記事。両親が共に広島県出身だったこともあり、オーディションを受けたところ、見事合格。2011年11月に正式に入団した。
それまでは好んで人前で演奏してきた方ではなかった。しかし今は仕事として、プロとしての演奏が求められ、その厳しさを痛感していると言う。全く知らない曲がどんどん舞い込んでくる。譜読みが追いつかない。「こんなに本番に緊張するはいやだ」と思ったことは一度や二度ではないとのこと。アンサンブルを演奏したいという意気込みを持った団員も多く、定期演奏会以外でも弾く機会が多いとか。その流れの速さに付いていけなくて自信を失いかけていたとき、先輩からアドヴァイスを受けた。「『緊張ばかりで楽しめない』『失敗しちゃダメ』でなくて、楽しむことを大事にしよう!」。意識を変えよう、そうでないとお客さんに伝わらないと、考えを改め始めたそうだ。
「良い演奏をしつつ自分も楽しむのは難しいことですが、素晴らしいソリストの演奏を耳にする度に、美しい音楽を身近に感じられるこの職場がありがたいと痛感します」と、笑顔を見せる。本番3日前のリハーサル。忙しい時期は月に2日間しか休みがないということもある。地方公演もあり多忙を極めるが、演奏会が終わると感想を言いにきてくれるお客さんもいるそうだ。月一回の定期演奏会には必ず団員全員分のシュークリームとおにぎりを差し入れるという、同楽団の「ファン」がいるとか。「若い子がんばれ!」「このオケの長年のファン!」と、いつも声を掛けてくれるその「ファン」の存在は、きっと計り知れない程大きいだろう。
忙しい仕事や練習の合間を縫って、2013年に再びアカデミーに参加。「仕事詰めの生活から少し抜け出して、外国の先生のレッスンを受けると、自分の考えが更に拡がります。それは音楽だけではなくて『生き方』そのものも含めてです。今後も休みが合えばアカデミーを受講したいし、機会があればもう一度フランスで学んでみたいです。その時はきっと、学生の頃とは違う留学になるでしょうね」。今は「言われてやることが全て」と肩をすくめるが、いつか自分で企画してヴィオラのソロや、ピアノとのデュオのコンサートを開きたいと、夢を語る。「アカデミー」の受講を考えている人には、「素晴らしい教授陣からはもちろん、共に受講する仲間に会うことで、自分の世界が拡がります。ぜひ挑戦してみて下さい!」。と、自身の体験を踏まえた言葉を聴かせてくれた。
ご両親からの「独立すること」という厳しく優しい言葉に応え、現在はプロとして活躍している永井さん。広島県のみならず、関西でも関西フィルにエキストラとして演奏することがあるそうだ。永井さんのヴィオラの音色を聴いて、子供の頃の永井さんのように、音楽の道を目指す子供達がきっとどこかにいるだろう。
Vol.3 松尾紗里さん(2009年スカラシップ受賞、ピアノ)
留学する時期は人によって様々だ。松尾さんが京都フランス音楽アカデミー(以後アカデミー)を受講したのは、京都市立芸術大学ピアノ科に在籍していた3年生の春だった。最終学年を目前に控え、毎年アカデミーを受講していた友人や、新聞でアカデミーを知った母親から勧められたのがきっかけだったそう。クリスチャン・イヴァルディクラスを受講。「先生の音色に目が丸くなりました。自分の音と全く違ったのです。ものすごく素晴らしかった」。見事スカラシップを受賞したが、「留学するのは今じゃないと思い、辞退しました」。
ピアノを弾いていた4歳上の姉の影響で、生まれた時から音楽に親しみ、3歳で音楽教室に通い始めたが、ピアノを弾くことより作曲法や聴音、ソルフェージュなどの「表現すること」の方が楽しかったと言う。中学では陸上部に所属したり水泳を習ったりとスポーツにも励みつつ、高校は兵庫県の公立校で唯一「音楽科」のある県立西宮高校に進学してピアノを学び、「この先生に師事したい」という強い思いを抱いて、希望通りの大学に入学した。
ピアノの道を順調に進んできたように思えるが、「音楽教室で学んできた音楽的に表現する事や作曲が得意で、メカニカルな奏法の基礎を飛ばしてきたせいか、高校に入ってから小学生レベルの本当に初歩から手厳しくやり直されました」と、苦笑う。様々な学生が集う音大で、10代の頃から海外で研鑽を積んだ学生などにも出会ったが、自分は日本でもっと細かいニュアンスを習得する必要がある、時間と努力があればメカニカルなものはきっと会得出来ると信じて練習に励んできた。留学のチャンスは嬉しかったが、松尾さんが選んだのは大学院に進学すること。「小さい頃から学んできた表現することと音高・音大で学んだ奏法が、大学院に入る頃やっと合致しました」。そして2012年に同大学院を卒業し、満を持してその年の8月にパリ・エコールノルマルに留学した。
渡仏1年目の感想を聞くと、「自分の演奏が下手で雑になったような気がしました」という答え。「日本では『ここはダメ、ああして』と、きっちり弾くことを求められ、まるで細い平均台を渡るような気持ちだったのが、フランスではどの先生からも『あれをしてはいけない、これをしてはいけない』などと言われません。その代わり、『あなたの言葉で弾かないと意味がないじゃない』と、自分を表現することを求められます。フランス語でうまく答えられない分、ピアノで表現するしかなくて、曲を徹底的に調べ、より大げさに演奏するようになりました」。古典もバロックも今まで自分が思っていた以上に自由に演奏することが許された。「でも、表現しようとするだけだと見破られます。そこに意思がはっきりしないと納得してもらえない」。先生と意見の違いがあっても、ちゃんと意思を述べられるか、その人なりの考えがあるかどうかが鍵だという。「ペダルやテンポを揺らしてはいけないなどと言われてきっちり弾くより、人間性にあふれた演奏の方が受け入れられるのかもしれません」。
フランスでは学生でも人前で演奏する機会に溢れていると感じるそうだ。教会で演奏したことが2度あり、とても得難い体験だったそう。渡仏後すぐに挑戦したコンクールでは「聴衆賞」を受賞した。1位はフランス人、2位はロシア人と松尾さん。「1位の方は、演奏レベルより『私を見て!!』と訴えるオーラの方が印象的で、とても面白かったです! 逸脱していても魅力があればいいのかもしれません」と、声を弾ませる。
松尾さんは、日本で細かい技術や基礎を十分習得した後、より大きな「音楽的感覚」を身につける為に自分で時期をしっかり見極めてから留学した。エコール・ノルマルのクラスでは偶然にもアカデミー受講時に同じクラスメイトだった友人が2人もいて、とても心強かったと言う。「アカデミーのレッスンを受けた事がきっかけで素晴らしい先生や仲間に出会い、留学するという考えにも至りました。受講生仲間にも恵まれたけれど、通訳の方も素晴らしかった。奇跡に近い教授陣が集まり、他の楽器のレッスンも聴け、まるでプチ留学です」。日本にいつ帰るのかは「今まさに考えているところ」。エコール・ノルマルの卒業試験が無事に終わればパリのコンクールにも挑戦してみたいと、前へ前へと気持ちは進む。
夢は「いつか自分が作った曲をコンサートで演奏すること」。幼少の頃から培われていた「音のパレット」の豊かさが垣間見える。作曲も編曲も伴奏も楽しいと言う。2014年6月、フランス南部のカルカッソンヌとモンペリエで前述のコンクールの「報償コンサート」でソロ演奏することが決定。フランスの空の下、松尾さんのピアノの音が響き渡る。
Vol.2 大橋ジュンさん(2004年スカラシップ受賞、声楽家・ソプラノ)
大阪音楽大学声楽科、同大学専攻科を修了後、母校の助手や大阪のプール学園高等学校の非常勤講師として務めるかたわら、関西各地で様々な賞を受賞していた大橋さん。仕事や自身の音楽活動で忙しいにも関わらず、2004年に開催された第15回京都フランス音楽アカデミー(以下アカデミー)に参加したのは「フランス歌曲に興味があり、仕事も春休みで丁度良い機会と思ったから」だと言う。
大学を卒業した直後から音楽講師の仕事に就いている。「人に教える事は好きです。教えると同時に自分に足りないものも分かります」。アカデミーでスカラシップを受賞した時には京都女子大でも講師として働いていたので、その年に渡仏する事は出来なかった。留学を決めたのは「人生の何かのきっかけになるかもしれないと思ったから」。翌年2005年に渡仏。「1年で何が出来る?」と、自問自答しながらの滞在だったという。パリでは画家を始め、何人もの学生に部屋を間貸ししていた初老の「ムッシュー」の家に間借り。ボジョレーの解禁日には手料理を振る舞い、週に一度はフランス語を教えてくれたと、懐かしむように話す。
パリに音楽留学する学生にとって、住んでいる部屋で音を出せるかどうかは大きな問題だ。大橋さんの場合は基本的に部屋で音を出すことが出来なかったので、練習は留学先のフランス高等音楽教育機関「パリ・エコール・ノルマル音楽院」でのみ。韓国人やスペイン人らと共に研鑽を積んだ。ドビュッシーやプーランク。フランスの空気に直に触れるにつれ、「この作曲家達がここで生きてきたのだと感動を覚え、歌詞に出てくる木々や花が想像しやすくなりました」。ドイツの森、フランスの森。「森」一つとってもそれぞれ違いがあり、そのニュアンスが歌に反映出来るようになったと言う。もちろん空気を感じるだけではなく、「パリに行くなら語学は必須」と、言い切る。「良いことを言われても意味が分からなければもったいない!」。学生には不可欠なVISAの手続きにしても、言葉の壁があるために苦労している人がいる。「時間がもったいない」。語学学校に通い、多国籍の友人らと交流を深めながら、「ムッシュー」のレッスンを受け続けた。「小さな子供が使うような音楽テキストを買って音楽用語を勉強したこともあります」と、当時を思い出して笑う。
一年という限られた時間を有効に使おうと、地道な努力を続けながら数多くのコンサートに足を運んだ。日本ではあまり観られないオペラやコンサートを聴き、「パリ・エコール・ノルマル」でレッスンを受けながら、日本での仕事の再開のめどもつけた。教壇に立つ仕事が決まった段階で帰国。「1年足らずの留学で何ができるかと言われると困るけど、『留学してみたかった』という知人は多い。今は留学するのに足踏みする傾向もあるようだけれど、何かのきっかけになる」と、期間に左右されない本場での勉強の意義を強調する。若い年代から留学する人も多いが、「30代で行ったからこそ落ち着いて勉強が出来た。語学学校でのレベル分けチェックや、多国籍の仲間が出来たことはとても良い経験。それに、パリに住んで初めて自分がメンタルな部分で島国の人間だなと思いました」。
帰国した後も大学や高校で教鞭をとりながら音楽活動を続けている。留学時に知り合ったクラリネット奏者の篠原猛浩さんと結婚。2013年12月には篠原さんらと共に、大阪市でプーランクの没後50年に寄せた記念コンサート「Fetes galantes艶やかなる宴」を開く。
アカデミーのスカラシップを受賞して留学してから8年、「音楽活動を続けようと思ったら、自分を高める為に仕事も必要」と言い切る。後進の指導に努めながらアンスティチュ・フランセ関西-大阪で、フランス語の詩の解釈を学ぶ講座に通い続けている。「これまではメロディーを優先に曲を選択していましたが、今では『この歌詞を歌いたい』と、歌詞の比重が高まっています」。常に勉強を怠らないその姿勢はきっと学生達にも伝わっているだろう。
Vol.1 白根亜紀さん(2005年スカラシップ受賞、声楽家・メゾソプラノ)
2005年に開かれた第16回京都フランス音楽アカデミー(以下アカデミー)声楽の部に参加したのは、まだ京都市立芸術大学に在籍中の学生の時だった。既に、滋賀県の「県立芸術劇場琵琶湖ホール」専属の声楽家として活動していたが、あるリサイタルで知り合った伴奏者に受講を薦められたのがきっかけだったという。既に応募締め切りは過ぎていた。急いで書類を整え、音源を送ったところ、合格の通知が来た。
「本場の講師陣が来日し、違う楽器のレッスンも気軽に見学出来る。びわ湖ホールでの仕事もあったのでレッスン全てには参加できなかったのですが、それでもたくさんの刺激を受けました」
スカラシップを受賞すれば一年間フランスに留学する機会を与えられるが、実はそのような賞があることを知らずに受講した。レッスンも最終日が近付いた頃、“フランスに行く気、ある?”と声楽担当教授のフランソワ・ル・ルーから通訳を通じて聞かれた時は、何のことか分からなかったと言う。 「行きたい気持ちはありましたが、仕事があったので即答出来ませんでした」。
やり甲斐のある日本での仕事か、フランスへの留学か。職場の担当者に相談したところ「折角なのだから行くべきだ」と背中を押してくれた。ひと月経たぬ内に留学を決意。携わっていた関西でのオペラ公演の稽古と、故郷の宮崎での留学準備を同時進行。公演が終わるや否や、「本当にフランスに行けるのだろうか」と半信半疑のまま機上の人になった。
アカデミーでの受賞から約半年後の2005年9月、フランス国内唯一の私立高等音楽教育機関、「パリ・エコール・ノルマル音楽院」に留学。一年間は瞬く間に過ぎた。「自分よりもっと上手な人の歌を聴いてしまった」「このままではダメだ」「一年で終わるのはもったいない」。溢れるような思いに駆られ、留学期間を延長するために「明治安田クオリティオブライフ文化財団」の「海外音楽研修生費用助成」のオーディションに応募。当時のびわ湖ホールの芸術監督・若杉弘の推薦状を手に、たった15分のオーディションの為に日本に戻った。面接が済み、パリに戻ってから届いたのは嬉しい合格の知らせ。それからはエコール・ノルマルの上級課程である第5課程、第6課程を見事修了。更に高等課程の“コンサーティスト”まで進み、結果を出した。
留学生活が全て順風満帆だったわけではない。声をつぶしてリハビリの為にロンドンまで通ったこともある。精神的にダメージを受け、歌えなくなった時もある。大切な試験を受けられない程のコンディションだった時もあった。そんな時にふとした縁で紹介されたのが、声楽家のクリスティーヌ・シュヴァイツァー。「目から鱗のレッスンでした」。リハビリを兼ねながらレッスンを受ける内に、自分の中の何かが開けていったと言う。
「『ここが変だからこうしようか』ではなくて、『今!この声いいよ!』と良い部分だけを取り上げてくれる。ネガティブな事は一切言わない」
喉と心のリハビリが効を証し、やっと声が戻り始める。パリに居を定めながら2008年に再び、びわ湖ホールの公演に出演。同年にはパリのシャトレー劇場でアジア人のコーラスを探していると聞き、オーディションを受けて合格し、パリの劇場の舞台に立った。シュヴァイツァー氏には今でも師事しているという。
「フランスに行く気、ある?」と聞かれ、咄嗟に“Oui”というフランス語が出てこなかったあの日から約8年。今現在はびわ湖ホール声楽アンサンブルのソロメンバーにも登録。2013年10月には同ホールのオペラに出演した。
「クリスティーヌ先生のように、ネガティブな事は言わず、良いもの=原石を見つけることに集中したい。子育ても一緒。その子だけの良いところを見つめていきたい」と、語る。アカデミーの受講を考えている音楽家達には、「自分にも言えることだけれど、何でもやってみないと分からない。可能な限り飛び込んでみる。そして自分を大切にして前向きに、ポジティブに!」とメッセージをくれた。アカデミーを通じた様々な出会いが、今も続いていると言う。「いつかアカデミーの卒業生でコンサートを開きたい」と、笑顔を見せてくれた。
「そしてこれからも可能な限り日仏間を行き来し、自分の歌を歌い続けたい」。
【ライタープロフィール】
治部美和
フリーランスライター。静岡生まれ京都育ち。パリ第4大学ソルボンヌ在籍中、日系企業の現地取材や撮影のアシスタント、通訳、広報誌の取材・執筆などを担当。日本で新聞社系の週刊情報紙の記者を勤めた後、プラハ、N.Y.やシカゴ生活を経て、現在東京在住。