2005年に開かれた第16回京都フランス音楽アカデミー(以下アカデミー)声楽の部に参加したのは、まだ京都市立芸術大学に在籍中の学生の時だった。既に、滋賀県の「県立芸術劇場琵琶湖ホール」専属の声楽家として活動していたが、あるリサイタルで知り合った伴奏者に受講を薦められたのがきっかけだったという。既に応募締め切りは過ぎていた。急いで書類を整え、音源を送ったところ、合格の通知が来た。
「本場の講師陣が来日し、違う楽器のレッスンも気軽に見学出来る。びわ湖ホールでの仕事もあったのでレッスン全てには参加できなかったのですが、それでもたくさんの刺激を受けました」
スカラシップを受賞すれば一年間フランスに留学する機会を与えられるが、実はそのような賞があることを知らずに受講した。レッスンも最終日が近付いた頃、“フランスに行く気、ある?”と声楽担当教授のフランソワ・ル・ルーから通訳を通じて聞かれた時は、何のことか分からなかったと言う。 「行きたい気持ちはありましたが、仕事があったので即答出来ませんでした」。
やり甲斐のある日本での仕事か、フランスへの留学か。職場の担当者に相談したところ「折角なのだから行くべきだ」と背中を押してくれた。ひと月経たぬ内に留学を決意。携わっていた関西でのオペラ公演の稽古と、故郷の宮崎での留学準備を同時進行。公演が終わるや否や、「本当にフランスに行けるのだろうか」と半信半疑のまま機上の人になった。
アカデミーでの受賞から約半年後の2005年9月、フランス国内唯一の私立高等音楽教育機関、「パリ・エコール・ノルマル音楽院」に留学。一年間は瞬く間に過ぎた。「自分よりもっと上手な人の歌を聴いてしまった」「このままではダメだ」「一年で終わるのはもったいない」。溢れるような思いに駆られ、留学期間を延長するために「明治安田クオリティオブライフ文化財団」の「海外音楽研修生費用助成」のオーディションに応募。当時のびわ湖ホールの芸術監督・若杉弘の推薦状を手に、たった15分のオーディションの為に日本に戻った。面接が済み、パリに戻ってから届いたのは嬉しい合格の知らせ。それからはエコール・ノルマルの上級課程である第5課程、第6課程を見事修了。更に高等課程の“コンサーティスト”まで進み、結果を出した。
留学生活が全て順風満帆だったわけではない。声をつぶしてリハビリの為にロンドンまで通ったこともある。精神的にダメージを受け、歌えなくなった時もある。大切な試験を受けられない程のコンディションだった時もあった。そんな時にふとした縁で紹介されたのが、声楽家のクリスティーヌ・シュヴァイツァー。「目から鱗のレッスンでした」。リハビリを兼ねながらレッスンを受ける内に、自分の中の何かが開けていったと言う。
「『ここが変だからこうしようか』ではなくて、『今!この声いいよ!』と良い部分だけを取り上げてくれる。ネガティブな事は一切言わない」
喉と心のリハビリが効を証し、やっと声が戻り始める。パリに居を定めながら2008年に再び、びわ湖ホールの公演に出演。同年にはパリのシャトレー劇場でアジア人のコーラスを探していると聞き、オーディションを受けて合格し、パリの劇場の舞台に立った。シュヴァイツァー氏には今でも師事しているという。
「フランスに行く気、ある?」と聞かれ、咄嗟に“Oui”というフランス語が出てこなかったあの日から約8年。今現在はびわ湖ホール声楽アンサンブルのソロメンバーにも登録。2013年10月には同ホールのオペラに出演した。
「クリスティーヌ先生のように、ネガティブな事は言わず、良いもの=原石を見つけることに集中したい。子育ても一緒。その子だけの良いところを見つめていきたい」と、語る。アカデミーの受講を考えている音楽家達には、「自分にも言えることだけれど、何でもやってみないと分からない。可能な限り飛び込んでみる。そして自分を大切にして前向きに、ポジティブに!」とメッセージをくれた。アカデミーを通じた様々な出会いが、今も続いていると言う。「いつかアカデミーの卒業生でコンサートを開きたい」と、笑顔を見せてくれた。
「そしてこれからも可能な限り日仏間を行き来し、自分の歌を歌い続けたい」。